江戸時代の人事考課
「江戸時代の人事考課」
NPO法人 日本ケースメソッド協会 会長 古澤 賢
私の手許に、「荒尾史話・第二巻」という歴史書ある。著者は熊本県荒尾市の郷土史研究家、麦田静雄氏である。麦田氏は市の認可を受け、地元の旧家に所蔵している古文書を集めて回り、独力で整理・解読し、年代別にまとめ、大変な努力と熱意を傾けて立派な郷土の歴史書を作り上げた。
私の郷里、荒尾市は熊本県と福岡県の県境にあり、隣接する福岡県大牟田市とともに昭和初期から昭和40年ころまで石炭の一大産地であった。
この歴史書は肥後国の江戸時代における経済、文化、政治の動き、武士や庶民の暮らし、風習、文芸などが詳細に書かれており、郷土の歴史を知るうえで大変貴重なものとなっている。
麦田氏は、巻頭で以下のように述べている。
<はじめに>
荒尾には、残念ながら、まとまった市史がありません。それで私は(歴史の素養がないので)正式な郷土史は書けぬまでも、一応自分なりに、荒尾の歴史を組み立ててみようと、これまで十二、三年の間、かなりの努力をはらって、資料を集めて来ました。
それを、出来るだけ年代順に並べ、平易な文でまとめてみたのが、この荒尾史話です。
従って、この史話には誤りや、物足らぬところが少なくないことと思います。
しかし、これが、荒尾を知り、荒尾を愛する人のふえるよすがともなれば、私にとって、何よりのよろこびです。最後ながら、快く貴重な資料を提供して下さった方々に、心から御礼を申し上げます。
昭和四十二年十月二十六日 著者
*************************
第二巻の第十五章・天保時代のなかに「庄屋の考課」というくだりがある。考課書を書いたのは関忠之允という人物で、その地方を治めていた郡代に差し出した資料である。これを読むと江戸時代の人事考課について知ることができる。また、とくに勤勉な者には褒美も与えていたこともあったようだ。この考課書を書いた関忠之允は肥後の国、坂下手永(現玉名市)の惣(総)庄屋である。史話は彼が残した数々の業績に触れている。関忠之允は1840年(天保11)、万田(荒尾市原万田、後の三池炭鉱の万田抗)というところで石炭の試掘を行った人物として知られている。(三池炭鉱は、2015年7月、明治日本の産業革命世界遺産としてユネスコに登録が決定した)。
関忠之允は荒尾の発展に尽力し、治水、耕作地の開拓など幅広く活躍した。
関忠之允が書いた考課書の一部を以下に紹介する。
*************************
第十五章の一.関忠之允と月田蒙斎
(ハ)庄屋の考課
1. 考課書
翌九年一月、忠之允は、手永中の庄屋の考課書を作りました。それは、人物・知識・技能・勤怠・功績などによって、庄屋を上の上・上・中の上・中・下という段階に分け、各人について簡単な説明を加えたもので、荒尾関係の分は次の通りです。
2. 上の上段
・向一部村庄屋兼務 渡辺次三(五十五才)
次三は、行状よく、筆算も達者で、御免方はもちろん、諸御用品一切をよくのみ
こみ、調査ものなどの時は昼夜の別なく勤め、きちんとやってのけるので、会所
手代以下役人共皆心服し、会所手代として適任である。一部村は、昔から零落の
所なので、次三はいろいろと復興の手段を講じ、心配りも行き届いて年々良くな
っている。
・中一部村庄屋兼務 古沢為助 (三十二才)
為助は筆算もうまく、才気もあり、井出や井桶について功績があり、役に立つ
人物である。ともすればとどこおることがあるので注意したところ、近頃は、
ひときわすぐれた者になり、零落の所ながら、心配りは行き届いている。
・下荒尾村庄屋兼務 平兵ヱ (○○才)
平兵衛は筆算も達者で、御免方に手馴れ、調べものなども十分のみこんで、役立
つ者である。また、村は零落の所ながら、復興の手配が行き届き、近頃、村の人々
の心も折り合っている。ただ、この頃病気がちなので、適当な人物がいたら代わらせたいと考えている。
3. 上段
・万田村庄屋 半兵ヱ (四十八才)
半兵ヱは、筆算こそできないが、世話は至って親切で、零落の所に対する心配り
がよく行き届き、小前もよく従い、その上気働きもあり、村は目立って、良くな
ってきている。
・上荒尾村庄屋 十助 (五十五才)
十助は、筆算もうまく、御免方も心得、気立てもよく、世話も行き届き、大村と
いえ、近頃、人々の心もおだやかになり、十分手馴れた者と見ている。
・蔵満・水晶村庄屋 硯川次郎左ヱ門 (五十三才)
次郎左ヱ門は、筆算もうまく、もと、会詰めも勤め、庄屋としても、零落の村を
数か村も勤め、今の村は去年代わったばかりで、まだ格別の功績はないにしても、
これまで勤めた大村や零落の村など、復興の心配りが行き届き、人々の心もよく
なったので、近いうちに成果があると思う。庄屋の仕事には、ずい分、手馴れた
者と見ている。
4. 中の上段
・宮内村庄屋 九兵ヱ (三十二才)省略
・小野村庄屋 助三郎 (六十二才)省略
・牛水村庄屋 專助 (五十八才)省略
・高浜・塩屋村庄屋兼務 古川儀右ヱ門 (四十九才)
・本平山・下平山村庄屋 江副藤左ヱ門 (五十一才)
二人とも、筆算もうまく、気働きもあり、大村にも零落の村にも適した人柄なので、
見締役も兼務させているが、たまには急場しのぎの間に合わせをやるので注意した
ところ、今ではひときわ引き締まっている。格別な力量もあるので、どんな役にも
立つ者と見ている。
5. 中段
・川登村庄屋当分 次郎七 (二十五才)
・野村村庄屋当分 九兵ヱ (二十八才)
二人は筆算もかなりでき、人柄もよく、至って精を出すので、世話はずいぶん行き届いている。追々は、本役を命じてもよいと考える。
・大島町庄屋 古沢安吉 (四十七才)
安吉は筆算ができ、特別気働きはないが、至って正直で、村の取り締まりも良く、世話も親切なので、村人もよく従っている。村のことはりっぱにやって行く者と思う。
以下5名省略
6. 下段
・増永村庄屋 寿兵ヱ (五十二才)
寿兵ヱは筆算がたくみで、御免方も手馴れて力量があるので、もと会所詰を命ぜられ、大村や零落所などの兼務を命ぜられたが、世話が届くのに気根がうすく、ややもすれば急場に間に合わぬため、去年、零落所の兼務を解かれた。村のことでは、ずい分行き届いて近頃は精を出している。
五人の考課書あり(略)
(ニ)半兵ヱらの表彰1.田川文次
忠之允は、大島町の黒田応右ヱ門に、その家来田川文次のことを書きださせたところ、
文次は、六十八才の今日まで五十三年間、これという取柄こそなけれ、かげひなたなくなく立ち働いてくれました。
文次を隣に住ませてからは、一人二人召使いを雇ったものの、いろいろ不埒なことがあったので、五、六年でひまを出しました。
それだけに、文次のような家来を持ったことを、仕合わせなことだと、折にふれては、父とも話しております。
とありました。
そこで、二月、忠之允はその書面を添えて郡代に、
今時は、大ていのものが骨身を惜しむのに、文次は今もって、力の限り働いています。こんな奇特な者なので、褒美として鳥目一貫五百目(註)ほど下げ渡して頂きたいと思います。
との願いを出しました。
*************************
昔は成人の素養として「読み書き算盤」などと言っていた。考課書をみると、筆算ができるかどうかが第一の条件で、その他に、人柄、気立て、気働き、などの言葉があり、人徳や情の要素も大きいと思われる。功績があったかどうかについて触れているのは一人だけである。また、“本役を命じても良い”とか“兼務を解かれた”などの表現にも興味を引かれた。庄屋の制度や役割はいかなるものであったのだろうか。荒尾史話には庄屋の役目については以下のように書かれている。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
第13章 文化・文政時代
二の2.総庄屋・庄屋の役目
翌五年五月二十一日、藩(細川藩)は総庄屋に、毎年正月、村々を廻って、在中御法度筋その他の教諭書など、民百姓の心得を示したふれ書を読み聞かせるよう命じ、庄屋は、春と秋の彼岸に、必ず村人に読み聞かせ、頭百姓、伍長・手習師匠も、これと力を合わせるよう定めました。
このように、総庄屋・庄屋は手永の見歩役などと同じように、女・子供に至るまでが、十分のみこんでいるかどうかを調べてまわることになりました。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
また、財団法人自治体国際化協会の資料には、江戸末期における農村部の村役人制度や職務について説明しているので、その一部を引用させていただく。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
名主または庄屋は村落の長であるが村落の代表であるとともに、支配体制の末端に連なる行政側の人間でもあった。(中略)
これらの村役人の内、名主または庄屋は世襲のものや、数家で交替にその地位についたりするものがあったが村落民の意思に寄り何らかの形で選ばれるものが多かった。(中略)
名主または庄屋の職務には、年貢の配賦、取り立て、道路、橋梁、用水路などの土木工事、戸籍事務、風俗取締り、消防等の警察的事務などを含んでいた。
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
今回、荒尾史話の中の人事考課書に興味を持ったことがきっかけで江戸時代の村役人の仕事の幅の広さを知って驚くとともに、同時に地方自治の仕組みも知ることができた。先人の知恵には改めて感心させられたものである。
(了)
(註)・鳥目(ちょうもく):日本国内で通用していた中国銭の呼び名のひとつ。円い銅貨の中央に(四角ですけど)穴が開いているのを、鳥の目に喩えた。当時は“銭”の意味で使われていた。現在ではめったに使われないが“お鳥目”のことばで残っている。
・一貫五百目:1貫 目は一文銭で1500枚。現在の物価と比較すると、当時(文化・文政=1804~1829)の江戸でそば一杯16文(一文=25円として400円)だったとの事。1500文×25円=37,500円となるが、地方の方が江戸より物価が低いと思われるので、1.2倍の45,000円程度か。