購入リスト

大震災の日に思う

投稿日:2013年3月11日 /  記事カテゴリー:コラム

東日本大震災から2年経った。当日私は会長以下の研修スタッフと西船橋の駅で帰宅困難者となった。とはいえ私だけは幸運にも東京方面へ帰るタクシー をつかまえ、4時間ほど掛けて午前2時過ぎに帰宅できた。他の人は「体育館雑魚寝ホテル」に宿泊されたそうである。住居家財に多少の被害はあったものの命 の無事を喜びたい。

私は阪神淡路大震災にも遭遇している。当時私は大阪に勤務しており、千里ニュータウンの中層マンションに居住していた。体育会系で年齢も50歳だったが、揺れている間は恥ずかしながら、なすすべも無くベッドにしがみついているだけであった。

神戸営業所を傘下に持つ関西支社の責任者として、震災直後の神戸を何度も訪れた。市内に漂う異様な匂いの中、デイパックを背にトレッキングシューズで、被災家屋の間を縫って歩き、TVでは決して伝えられない現実を実感した。

JR 山陽本線の高架線から見た神戸の惨状は目に焼き付いている。特に印象的だったのは、広い道路の左右で被害が違うところがあちこちにあったことである。左側 は無事なのに、右側は丸焼けで、焼け残ったビルが散見されたりした。これは都市計画の実行状況のばらつきなのであろうか。

その年の春、仙台に転勤になり、東京と仙台を頻繁に往復することになった。

新幹線は上野を過ぎて地上に出るが、大宮までの車窓の景色は気を滅入らせるに充分であった。両側に広がる密集した木造の戸建て住宅群、少ない緑地、狭い道路など、あの高架線から見た焼けた神戸の姿と重なって見えた。震災前の神戸もかくやと思わせる。

東京から仙台までは、ビールを一缶飲みながらウトウトすれば間もなく到着である。半分居眠りしながら、震災のことを考える癖がついた。

ケーススタディーの恰好の課題でもあった。考えた対策は意外とシンプルである。

関東大震災の死者の9割は焼死であるとか。一昨年の震災の死者はほとんどが津波によるものであった。であれば高台に耐震不燃住宅を建てて居住すれば、少なくとも命は全う出来るのではないか。低地であれば拠点に大型の中層集合住宅を設置すれば安心だ。

道路を拡幅し、避難のための広場や公園緑地などを設置する必要もあろう。

政府の公共事業施策をバラマキと非難する発言を時折見掛けるが、そんな単純な問題ではなかろう。感情的な「コンクリートから人へ」などではなく、「もっとコンクリートを」ではないのだろうか。

5年前に東北勤務を終えリタイアしたが、大震災後は被災地支援の意味を込めて、しばしば東北へ旅行している。上野−大宮間の車窓の景色に変化がないのは困ったことだ。

首都直下型地震や東海・南海トラフ地震が危惧されている昨今、第一の国家目標は国土の防災化であろう。言いたくはないが、今後発生する大震災で都市防災化の不備による被害が出た場合、それは今の世代の責任であり、未必の故意とも言えるのではないか。

副会長 鈴木

大震災の日に思う” への1件のコメント

  1. 震災は学ぶべきことの多くを含んだ現実の「ケース」であり、そのケースから思考し、学び、対策を実現して行くことが重要なことと思いまた。広くは歴史、残念ながら日々起こる事件・事故、身近なちょっとした出来事など、震災も然ることながら社会にはさまざまなケース=学びや思考の源があるのでしょうが、見逃してしまったり活かしきっていなかったりが多いように思います。このコラムでそのことを思い出させてもらいました。
    松下幸之助さんの「学ぶ心」を見聞したことも思い出しました。そこでは、「学ぶ心さえあれば、万物すべてこれわが師、語らぬ木石、流れる雲、無心の幼児・・・(道をひらく 松下幸之助著、PHP研究所)」、万物すべてこれがわが師と松下幸之助さんがおっしゃるよう、学ぶ心があれば、震災や歴史は然ることながら、身近なちょっとした出来事も私たちが学び、思考を深め、より良い前進のためのケースということができるのではないでしょうか。ついつい見逃したり、活かしきれないことがないように多くのちょっとしたことでも十分に気を留め続ける必要があると感じました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>

ページトップへ