ヒューマン・アセスメント裏話(1)
ヒューマン・アセスメント裏話(1)
NPO法人日本ケースメソッド協会 会長 古澤 賢✥ プロローグ
30年以上、人事関係の研修に携わってきた私としては、その中でも特に比重が大きい「ヒューマン・アセスメント」(Human Assessment)とは一体何かを改めて自分に問いかけている。私のライフワークともいえるこの仕事を整理することにもなるからである。
これまで担当した企業、官庁、大学の研修は全部で150社ほど、その中の約6割がアセスメント型の研修である。20年以上担当してきた企業も少なくないが、長く続いた会社は例外なくヒューマン・アセスメントだった。昇進、昇格、登用に関わるアセスメントは人事制度とは表裏一体だからである。
近年、このヒューマン・アセスメントは一般企業だけでなく、公官庁、地方自治体、大学などでも導入するところが多く、人事や研修部門の人で今や知らない人はいないと言っても過言ではない。人事に関わるアセスメントは「ヒューマン・アセスメント」の他、「人材アセスメント」、「マネジメント・アセスメント」「人事アセスメント」などいろいろの呼び方がある。本場米国では「アセスメント・センター・メソッド」(Assessment Center Method)と言う。
日本では就中「ヒューマン・アセスメント」という呼称が一般的に良く知られている。私が所属している研修会社の創業者グループが、40年ほど前に米国のDDI社(米国有数の人材開発コンサルティング会社)からこの技法を導入する際、誰もがわかりやすい名前はないかと知恵を絞って名付けたものである。
✥人生の転換
私が30歳半ばでその研修会社に入社したきっかけというのは、当時勤めていた会社が行った「管理者養成研修」に参加したことだった。これはアセスメント方式による能力開発【D型=development】研修だった。(今では選抜【S型=selection】のアセスメントを実施している企業が圧倒的に多くなっている)
その研修で私は初めあまり気乗りがしなかった。ところがやっているうちに次第に熱くなってきて本気モードになってきた。多分他の連中もそうだったろうと思う。実はこれは主催者側としては織り込み済みのことで、この研修の巧妙な仕掛けになっているのだ。その後、縁があってその研修会社に入社することになったが、受講している時はただ夢中だった。まさかこの世界に自分がどっぷり浸かるとは夢にも思わなかった。今思うとやはりその時体験したことが、自分の人生にとって大きな影響を与えたことは間違いない。
✥売れない作家
初めの4~5年はアセッサー(評定者)として、ひたすらアセッシー(受講者)の行動を観察し、せっせとレポートを書いた。当時は今と比べるとまだ、のんびりしたもので、月に数本の研修があった程度だったし、アセッサーミーティング(評定会議)も研修が終わってから会社に講師全員が集まって時間をかけてやったものだった。(今ではほとんどの場合、研修中にミーティングを済ませてしまう。同じメンバーが同じところに集合すること自体が無理なのだ)
ただ、そうは言っても一回当たり6名程度を請け負って来るから、うっかりするとレポートはすぐたまってしまう。それで土日はレポートを書く時間にとっておかなければならない。だから、土日ともなると趣味・スポーツの類は極力避け、家に籠ってレポート作りに専念することになる。そして日曜日の黄昏時になるとボストンバックを持ってそそくさとどこかへ出かけるというパターンになっていく。近所の人はその姿を見て、訝しがって、「お宅のご主人はどんなお仕事ですか?」と尋ねる。しかし大概の奥様はうまく答えられない…、その当時我々の間で流行った言葉があった。それは「売れない作家」…、もちろんそう言われているんだろうなぁと、自分達を揶揄してのことである。
✥アドミニストレーターになって
所属していた会社はアセスメント研修の草分け的存在だったから、アセスメント研修をやっていたのは日本を代表する会社ばかりだった。銀行、商社、損保、生命保険、流通、メーカーなど多岐にわたっていた。そのような会社の現職の課長、部長ともなると私よりほとんどが年上、初めはプレッシャーも半端ではなかった。ただ、唯一の救いは、アセッサーはレクチャーがないことだった。
だが、やがて40歳過ぎたあたりからアドミニストレーター(アセスメントコースの運営責任者かつ評定の最終ジャッジをするメイン講師)の役割が回ってくるようになった。そうするとアセッサーとはまた違う苦労があった。研修が終わって2週間ほど経つと、ぼちぼちアセッサーからレポート原稿の郵便が届く。今のようにパソコンがまだ普及していない時代だから、郵送または宅急便を使う。多い時は一日に何度も来る。来るたびにそれに目を通して、赤を入れる。日々の研修の出張に加え、その仕事が結構きつかった。新幹線の車中は格好の仕事場と化していた。そして相変わらず「売れない作家」の日々が続く。
✥アセスメントは刺激の連続だった
さて、長くなったが、前置きはそのくらいにして、アセスメントのことだ。最初はメイン講師の指示通りに、観察記録、評定作業、ミーティング参加、レポート作成の繰り返しであった。これはアセッサーの目を肥やすことには大いに役立った。また、研修先の控室や宿舎で講師同士がアセスメントに関する勉強会のようなことを盛んにやった、まさにOJTである。
「この観察データはレアケースだがディメンション(能力要件)のどれで診るのか」「討議で一言も発言しなかったこの人をどう診るか」「インバスケットの案件処理が極端に少ないが処理している案件は詳しく書いているし、中身が濃い、この場合は?」「性格と能力はどのような関係にあるか?別物なのか」「面接演習では厳つい感じで怖かったが、インバスケットでは人にすごく気を使っている、演習でデータが矛盾する場合はどう診るのか」など、喧々諤々の議論の時もあった。
我々で結論が出ないときは、メイン講師が明確に応えてくれるのだがその先生だってアセスメントはせいぜい十年もやっていないのだから、脱帽せざるを得ない。理論と実践の質と量に差があるのが歴然としていたのだ。それを目指す目標もできた。アセッサーの仕事は勿論だがメイン講師やメンバー同士の会話がどれほど刺激になり勉強になったかわからない。
✥アセスメントの歴史
アセスメントの歴史は80年ほど前にさかのぼる。選抜型のアセスメントを最初に行ったのはドイツのナチス親衛隊将校の選抜と言われている。高級将校がアセッサーになって候補者に実践さながらの演習をいくつかやらせて成績の良いものを将校に抜擢したという。英国では、映画007でお馴染みのスパイ要員を決めるのに同じような手段をとった。日本でも、陸軍中野学校の諜報部員を選ぶのに際して、想定した状況で使命が果たせられるかを色々な角度から試されたと言われている。いずれも、役割を全うするための必要な能力を予め決めておき、それを有しているか(潜在能力)、そしてもっと肝心なのは、いざと言う時、本人がその能力を出せるか(発揮能力)が大きなポイントであった。
第二次世界大戦終了後、この技法は米国に受け継がれて大きく花開くことになる。米国でも当初は軍隊で活用されていた。マネジメントが求められる世界だから当然と言えば当然。MTP(Management Training Program)やTWI(Training Within Industry)などの人材育成プログラムは軍隊のマネジメントをベースに発展したものである。また、アセスメントの手法を応用した代表的な例は空軍の士官学校の学生に今のインバスケットに相当するものを使ってのトレーニング。
地上にいて実践さながらの出来事を体験できるこのインバスケット方式は学生のスピーディかつ的確な判断力を養うことに顕著な学習効果を上げたと言われている。今ならコンピューターのモニターを見ながらゲーム感覚で行う、複雑なシミュレーションマシーンがあるが、それでも当時は画期的な手法だったのだ。それに着目したのが民間企業の人材開発で当時急成長していた前述のDDI社であった。
次回はヒューマン・アセスメントの本質的な点に踏み込んで「理論と実践」の考察をしてみようと思う。