思い出に残る恩師の言葉
馬齢を重ねるといいますが、私もとうとう70歳、古希を迎えてしまいました。思えば長いような短いような70年でした。これから後どの位元気で過ごせるのか神のみぞ知るのでしょうが、健康に留意して呆けないように努めようと思っています。
それにしても、忘却のかなたとはいえ、いつまでも心に残るのが学校時代の先生の言葉です。なぜかいつまでもいつまでも鮮やかに覚えていて、消えることはありません。その中のいくつかをご紹介しましょう。
まず新潟市立白山小学校の3年から6年生までの担任の渡部宇威智先生。先生はまだお元気で毎年の同級会に出席されます。ある授業で先生が「この世の中でもっとも大切なものは何か」と聞かれました。皆は「地球、太陽、お金、兄弟、親、空気、水」などと返事してましたが、先生は最後に「それは人の命だ」とずばりおっしゃいました。今でこそそういう答えは普通でしょうが、戦後間もないころの時代には新鮮な回答だったと思います。もうひとつは、運動会の棒倒しゲーム直前の先生の指示です。「全員で真正面から押せ。力を集中せよ。3名だけが裏に回れ。必ず棒は反対側に倒れるから、すぐ旗を取れ」。全くそのとおりになりました。恐るべき戦術といまだに忘れられません。次は新潟市立白新中学校の2年、3年の担任の野瀬吉栄先生。野瀬先生は数年前にお亡くなりになりました。先生は師範学校を出られて、中国戦線で中隊長を勤められた方です。時々戦争の生の話をしていただいてどきどきしたものです。その中で「部隊が移動するときは、事前に必ず斥候が偵察して確認してから移動する。だから映画にあるような待ち伏せはあり得ない」。もうひとつは「物事を打ち合わせするときは、必ずたたき台を用意して打ち合わせる。何もなしでは打ち合わせにならない」この言葉は、会社生活でも肝に銘じました。
次は県立新潟高校の三人の先生の言葉。一人はきわめて話が面白い池 政栄先生の言葉。全校生徒の前で「もうだめだ・・・と思うところに道がある」。次は数学の沢山巌(あだ名はだんご。お亡くなりになりました)。先生は陸軍大学の出身です「陸大の試験で、ある城か塔を攻め落とすが、周りに身を隠すものはひとつも無い。ここにこもる敵には無数の機関銃がある。貴官はどう攻略すべきか?」その答えは「突撃あるのみ」。万感の思いで、なるほどと思いました。次はバレーボール部部長の小林正弘先生(非常にお元気です)の名文句。夕方屋外コートの練習で暗くなりボールが見えなくなりました。「先生、ボールが見えません」と言いましたら「馬鹿やろう!ボールは見えるんじゃない、見るんだ!」これには参りました。最後は京都大学排球部の顧問だった森美郎先生(機械工学)の言葉。ある時部員皆で先生のお宅へお邪魔したときです。「私がアメリカへ留学したとき、酒の席で日本の歌を歌えというので、日本ではやっていた流行歌や誰でも知ってる歌を唄ったら、どれもこれもToo Sentimentalと言われて受けなかったが、唯一これはいいと言われたのが、酒は飲め飲めの黒田節だ」。ところ変われば品変わるとはこのことかと思ったわけで、なぜか今でも忘れられないのです。このように言葉というものは、受けた人に一生ついて回ることがあります。良きにつけ悪しきにつけ心したいものですね。(了)
理事 齋藤
確かに恩師の言葉と言うのは、心の中に永く残り、良い影響を与え続けるのかもしれません。私の場合は、充実していない学生生活で、師へは抵抗心ばかりで、人の言葉を受け入れ、考えることのできる秀逸な学生であれば良かったと内省すると同時に、このブログのような経験に羨ましさを感じます。
昨日、キャリアデザインの研修で、ドラッカーの恩師からの言葉「あなたは何によって覚えられたいですか?」を考えるコーチングをしてきました。私の場合は今更ですが、拠り所になる言葉、問いを自らに持ち続けることは大切なことと思います。