S-R理論とケーススタディー
日本ケースメソッド協会の会長古澤賢です。最近、VIPセミナーで学生さんの就業力育成に関わることが増えてきました。VIPとはVirtual Internship Programの略です。これは学生さんが社会人になる前に実際に企業に行って就業体験をするいわゆるインターンシップをバーチャルなシミュレーションで体験をしてもらうものです。それによって就業力の重要性や自分の特性に気付き、一人の人間として個性を伸ばしながら成長してもらおうというプログラムです。
学生さんの行動を観察し、就業力について助言しながら最近考えるのは、人間行動の研究についてです。私が永年携わってきたヒューマン・アセスメン(Human Assessment:能力診断や人材開発の技法)にも大いに関係がありますので、「人間行動の研究」について少し触れてみたいと思います。
10年ほど前、ある雑誌で田代名誉会長と私が対談しましたが、S-R理論とケーススタディーについて話し合っていますので、そこだけ抜粋してご紹介します。
人材開発情報誌「企業と人材」の特集≪田代空:ケーススタディーの効用と活用を考える・8回シリーズの最終回≫【田代空氏、越知克吉氏(公認会計士)、古澤賢の対談・2003年4月20日号】
S-R理論とは外界の刺激(S:stimulus)と反応(R:response)の間に結びつきができることが学習であるという考え方です。これについては後で詳述します。
************************************
【田代】
今、ケースを使う場合の観点や工夫について話していただきましたが、これらを理論的に考えますとS-R学習理論とLBD(Learning by Doing)ということになります。S-R理論というのは学習理論の一番基礎になる考え方で、Sというのはステムラス、刺激です。そして、Rというのはレスポンス、反応です。これは刺激が強ければ反応もそれだけ強いという考え方で、刺激の仕方をいろいろ変えれば反応も効果的に出てくる、そこの間には一種の関数関係があるという理論です。
(中略)
それと、LBDつまり実践学習の視点が重要です。LBDというのは、ものごとをちゃんと理解するには、単に講義を聞いただけでは駄目だ、それを基に実践して評価しないといけないということです。そういう一連のプロセスを一通りやってみないと、効果的な学習はできないので、LBDが学習方法としては一番良い方法だというのが定説です。しかし、この面から今行われているケーススタディーを眺めてみますと、かなりの企業では、S-R理論やLBDから離れた使い方をしているようにみえますが、このへんについて何か気付く点はありますか。
【古澤】
刺激と反応というのは、K.レヴィンが言っている“場の理論”に近いですね。これは「人間は、個人の特性によるだけでなく、その人が置かれた“場”に影響を受けて行動するものだ」というものです。環境から刺激を受けてそれに反応する形で行動する。それを繰り返すことで、経験が蓄積されて能力が身についていくわけですが、S-R理論から一歩進んだS-O-R理論があります。O、つまりオーガナイズム(Organism)という、主体となる自分がいてそれが刺激を受けて、自発的・自律的に反応するものだという考え方が出てきました。
つまり、単に経験を積むだけでは限界があり、そこに主体性がないと真の能力は高まらないというわけです。日本では“場の理論”は著名な哲学者西田幾多郎が初めて提唱しました。今は東大の清水博さんが代表的です。職場など、場を共有する主体性を持ったメンバーが、知的創造に向かって自律的に活動することが大切ですね。お互いに刺激し合うことが経験の蓄積にもなってくるのではないかと思います。
【田代】
経験の蓄積というのは、具体的に言えばどういうことになりますか。
【古澤】
それは、結局、自分の中でインテリジェンスの蓄積になっているかどうかだと思います。それこそ知恵です。アセスメントをしますと、いろいろな経験を積んだ管理職でも、中には応用がきかない人がいます。少しでも自分の経験にないテーマになると、全く手が出ない。これはその人の刺激の受け方、つまり、刺激をどのように主体的に受けとめて、主体的な反応をするかということに関わっているのだと思います。
【田代】
越知さんはどう思いますか。
【越知】
私はS-R理論について言えば、刺激があれば記憶に残ると思います。その刺激というものは、楽しい刺激もあれば苦しい刺激もあって、人間はそういうものを経験しながら学習していくのかなと。それと、LBDはどちらかというとコツかなと。やらせてみて「そうだね、うまくいったね」、「こうしてやるとうまくいくのか」という風に、コツを覚えさせることだと思います。楽しい刺激を与えて、成功体験を増やしてあげれば、良い効果が出るはずですから、その意味では、そういうコツを学ぶような学び方ができるのは、やはりケーススタディーかなと思います。
************************************
この対談で触れているS-R理論は少し説明を要すると思いますので、以下に人間行動の研究と変遷について、簡単にまとめてみます。
1.内観法から古典的行動主義へ
19世紀以前の心理学研究は自分の内面心理を自分で内省する「内観法introspective method)」が主流になっていました。W.ヴントなどを代表とする内観法に基づく要素主義の心理学です。
ジークムント・フロイトの精神分析研究では心理臨床の実践・観察に基づく「臨床法(clinical method)」によって精神分析理論が構築されました。しかし、内観法も臨床法も客観的な結果の測定ができず、“主観的・抽象的な研究方法”に留まるという限界がありました。
そこに登場したのが、心理学の第二勢力ともいえる、J.B.ワトソンやソーンダイクに代表される行動主義心理学(行動科学)です。行動主義(behaviorism)では客観的・実証的な研究方法として、環境条件を統制して実験を行う「実験法(experimental method)」と客観的な行動記録を行う「観察法(observational method)」が採用されました。
J.B.ワトソン(1878-1958)に代表される古典的行動主義では、科学的心理学を確立するために「抽象的な内面」ではなく、「客観的行動」を研究対象として、行動の生成・変化・消去のメカニズムを解明する行動実験が実施されました。
ワトソンは人間の行動を「刺激(S:Stimulus)」に対する「反応(R:Response)」として理解するS-R理論を提唱しました。ワトソンは「先天的な遺伝・資質」よりも「後天的環境・経験」が人間の行動形成や目的達成を規定すると考えていたのです。
ワトソンはI.Pパヴロフ(1849-1936)の「パヴロフの犬の実験(ベルの音に対する唾液分泌)」で証明された「条件反射の理論(conditioned response)」の影響を受けていました。
ワトソンは「特定の刺激」に対して「特定の反応(行動)」が結びつくというS-R理論によって「人間の行動の一般法則・因果関係」を明らかにしようとしましたが、同一の刺激に対して異なる反応(行動)が起こるという反証もあり、古典的行動主義による行動原理だけでは一般法則化はできず、新しい理論の登場を待つことになりました。
2.新行動主義の台頭
新行動主義に分類されるクラーク.L.ハル(1884-1952)とE.C.トルーマン(1886-1959)は、方法論的行動主義の研究方法と「媒介変数」の導入によって、ワトソンの限界を克服しようとしました。これは、人間の行動をシンプルな刺激(S)に対する反応(R)とみなすのではなく、反応(R)を規定する媒介変数を設定することで人間の複雑な行動を理解することができるという考えかたでした。
ハルは、1943年、S-R理論の改良版ともいえる「S-O-R理論(Stimulus-Organism-Response Theory)」を提唱しました。
この理論では、「O(Organism、有機体)」が刺激・反応に影響を与える媒介変数になっています。「O(Organism、有機体)」というのは有機体である生物・人間の内面的要因(認知的情報処理)のことであり、同一刺激を受けても有機体の内的な情報処理によって出力される反応(行動)が変化してくるのです。
同じ学習時間(学習内容)を経験しても、個体によってその学習効果は大きく異なってくることがありますが、それも「有機体の内的要因」の差によって合理的に理解できます。
ハルの提示したS-O-R理論は人間の行動の生成変化を統合的・論理的にできる理論であり、人間行動の一般化に成功しているのですが、媒介変数のO(有機体)が抽象的なブラックボックスになっているという問題が残されています。
3.K.レヴィンの「場の理論」
人間行動のメカニズムについて研究して説得力のある理論を提唱した人がK.レヴィン(1890-1947) です。彼はドイツで生まれ、その後米国に亡命し、米国で活躍した心理学者です。フロイトと並ぶ「力動論」の代表者でもあり、ゲシュタルト心理学の影響を強く受け、情緒や動機付けの研究を行いました。
実践的な理論家として、「よい理論ほど役にたつものはない」という有名な言葉を残しました。「力動論」とは、葛藤(conflict)の3つの基本型を示し、行動の根底にある要求や動機を重視、行動にいたる過程を研究したものです。
過程や原因を過去の性的な要因に結びつけがちだったフロイトに対し、彼は、現在の生活空間全体から行動を分析しようとしました。
B = f(P・E)
レヴィンは人間の行動の一般法則(普遍的原則)を、上記の関数式で表しました。レヴィンが重視したのが『生活空間』です。人間の行動(B:Behavior)は、人間(P:Person)と環境(E:Environment)のシンプルな関数として理解できるという確信を持っていたレヴィンは、B=f(P・E)という関数を生活空間として提案しました。レヴィンの生活空間のアイデアは『場の理論(トポロジー理論)』とも呼ばれます。『場の理論』の建設的な意義は、人間の行動が『生理的な欲求・本能的な願望』という動機だけで決まるわけではないことを示し、『環境の変化・他者の反応』といった環境要因との相互作用によって人間の行動が規定されることを説明した点にあります。
レヴィンによれば、喜怒哀楽の感情といった『人間(P)』の要因が変わったり、他者や情況の変化といった『環境(E)』の要因が変わった時に、均衡回復のための新たな『行動(B)』が生起してくるということです。生活空間は『経験・知識』の積み重ねによって体制化が促進され、適応的な認知の分節化(多様化)が進んでいくことになります。
この経験的な学習効果は、生活空間が高度に分節化されて認知が柔軟になるほど、『実際的な行動のレパートリー(選択肢)』が増えることを意味しています。生活空間は『有用な経験・知識』が増えるほどに豊かさや適応性を増していくことになり、『ステレオタイプな硬直した反応』から『クリエイティブで柔軟な行動』への転換が起こってくるのです。この理論はヒューマン・アセスメントにおける人材の発見やケーススタディーを使った能力開発といった観点からも示唆に富む考え方です。VIPの狙いもまさにそこにあると言えます。
ところで、対談でも言及した西田幾多郎(1870-1945)のことですが、先生はわが国における「場」の概念の研究者です。哲学者でもあった京都大学名誉教授・西田幾多郎博士の研究はその後、東京大学教授・清水博氏によって受け継がれ、洗練されてきました。その他、西洋においても、プラトン(コーラ)、アリストテレス(トポス)、カント、フッサール、ハイデッガー、ホワイトヘッドなどの哲学者によって、西田や清水による「場」の概念と類似した場所性の概念が提唱されています。
(了)
会長 古澤
人事制度や研修を設計する中で、そこに関わるコンサルタント、研修講師、人事担当者、決裁者としての経営者が、ここに示されている「S-R」、「S-O-R」、「f(P・E)」といった論理、因果関係をどこまで気にしているでしょうか。闇雲や自分なりの価値観で設計する人事制度や研修ではなく、検討基盤として明快なS-R、S-O-R、f(P・E)を踏まえることの重要性を再認識したように思いました。特に、組織に要する・求めるRを明らかにし、そのために必要なSを設計すること、そのことが人事制度や研修設計上の最大の基盤であることを理解しました。